今日は暖かくなりました。
(でも、自分はおなかの調子が悪く・・・少しの寒気・・)
という状態でも紅茶教室には行ってまいりました。
本日の講座内容はと~ってもお堅い内容・・・
レジメを見たときには、これから戦略営業会議でも始まるのか~と思うほど、数字のリストとグラフばかり・・・
ティータイムの優雅さはみじんも感じられません~
私は仕事柄、こような数字のリストやグラフを見ることも多く、その数字の裏にある状況を考えることがよくありますが・・・
今日はそんなグラフや数字から、英国紅茶の歴史を学ぶような感じですね~

1700年代前半は紅茶はまだまだ高価で王侯貴族のみの飲みのであり、生産地も中国のみ・・
お茶にかかる税金も高く、東インド会社が茶の輸入の権利を独占していました。
トワイニングやフォートナム&メイソンが創業され、少しずつ一般庶民も紅茶を買うことができましたが、
それでも、高価なものに変わりはありませんでした。
1700年代半ばには、英国国内で磁器を作ることができるようになり、少しずつ茶の消費量も上がっていきました。
しかし、1773年アメリカでボストンティーパーティー事件が起き、いったん英国での茶の消費が落ち込みますが、
四代目トワイニングのリチャードさんが首相ウィリアム・ピットに茶の減税を要求し、実施された1780年後半には茶の消費量はぐんと増加。
1833年東インド会社による中国貿易の独占権がなくなり、中国との貿易が自由になりました。
そして、その頃にはティークリッパーという高速帆船が誕生。
インドやセイロンでも茶の栽培が始まります。
ヴィクトリア女王の時代にはアフタヌーンティーの習慣が王国貴族の間で始まります。
そんな時代に中国との阿片戦争が終わり、英国の思うような茶の取引ができるようになりました。
産業革命により、労働者階級でも茶を飲むようになり、そんな庶民に向けた教則本「ビートン夫人の家政本」が1861年に出版され、中産階級の主婦たちは、お茶の淹れ方などを学べるようになりました。
ロバートフォーチュンが入手した茶の苗木がインドのダージリンに伝えられたり、(1852年)ジェームズ・テーラーがスリランカ、キャンディで茶園の開拓を開始し(1866年)、生産量も消費量も増えていきます。
1869年にはスエズ運河も開通し、今までティークリッパーで茶を運搬すると到着までに90日以上かかっていたが、大量に短期間で茶を運搬できるようになります。
そうなると、英国での茶の消費量はぐんとあがります。
1800年後半になると、インドやセイロン(スリランカ)で栽培していた紅茶がロンドンのオークションにかけられることになり、中国からの輸入を上回るようになります。
そして、1900年代になるとアフリカのケニアでも紅茶が栽培されるようになります。
こ~んな史実がグラフと数字からとらえることができるんですね~
なかなか面白いな~と思いました。
残念ながら、現在の英国の一人当たりの消費量はどんどん減少し、輸入量も2010年にはアメリカにも抜かれています。
英国では、スターバックスの影響で、若者がコーヒーを飲むようになっているそうですよ~
本日のレッスンは今までにない別の視点での紅茶のとらえ方ができ、なかなか楽しいものでした。
まあ、どちらにしても、なかなか歴史が頭に入らず、一度年表を自分で作らなくて駄目ですかね~

関係ないけど、数年前には、ハプスブルク家の代々の歴史も覚えていたのですが、今やみ~~~んな忘れてしまいました~(かなり本読んだのですが・・・)
と、なぜ、突然ハプスブルク家の話が出たかというと、金曜日に会社の本社より、お偉い方が来日され、
その方がハプスブルク家の末裔である・・・という話があって、久々にハプスブルク家の話題が上ったことによります。
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